やっと風邪が快方に向かいつつあるが、まだ完治ではない。「物語」とは何か、というのは、高専生時代に蓮実重彦や中上健次を読んでいた私にはずっと意識の片隅にあるものだ。多分、蓮実重彦の物語概念はフランスの説話論を下敷きにした「独創的」なものなので現代フランスの文学思想を参照する労を厭いさえしなければ理解に困難なものではない。だが、ものぐさなので放置している。最近、ふと吉本隆明が共同幻想論を書かねばならなかったのは、政治家と芸術家の社会存在論的な交点においてその存在を客観視ー反省する必要があったのだろうと思い当たった。戦後、アドルノのテーゼ(アウシュビッツ以後の詩人の野蛮性)にみられるがごとき芸術家の存在論が厳しく問われた、それは表面的には芸術家の社会参加ーアンガジュマンの形式を取ったが、これをマルクス主義よりは民俗学的な次元で扱う必要が吉本隆明にはあった。勿論そのベクトルは、学生運動の指導者から神話学の研究に向かったレヴィストロースと軌を一にするものだ。だが多分、共同幻想とは共同体と芸術家=政治家との関係において問われるべきまさに「物語=イデオロギー」の問題であったという視角が、その前も後も広く了解されたのか否かは知らない。
・ヘーゲルの判断論が歴史の進展と一致している点は、大論理学でも特に分かりにくいところだがおそらく、ここで言われている「判断」とは「正しい判断」である事を基本に据えると理解しやすくなる。我々がある外的対象としての赤いバラを指して「バラは赤い」(バラは赤い色を持って存在する)という判断を行う。すなわち、バラと赤とを結合する判断を行うが、これは外的対象としてのバラが赤い色をしてるから正しい判断、言明なのであって、外的対象の姿が先行している。では外的対象としての「バラが」「赤い」という事態が存在するためには、外的次元でバラが赤くなっていなくてはいけない。つまり、論理的判断が言明される前に、対象がそのような姿に変化=発展していなくてはならない。このような外的変化が、いわば客観的世界の「判断=変化発展』であり、言明としての主観的な論理的な判断は、この外的出来事を意識において再現するものだといいうる。
コメント
コメントを投稿