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12月, 2017の投稿を表示しています
 主題論と大きな物語・神話。主題論は作品論にとって否定的媒介であるというのがわたしの基本的な考え。 というのも、主題論的な作品分析は、帰納的手法であれ、結局のところ、作品を、超越的な物語に還元する機能を持つからだ。作品を別の物語に還元するなら、それは既に作品を論じているのではなく、超越的な物語を論じていることになる。主題論によっては明らかにならない残余こそが、その作品の固有性である。その残余を明らかにする前提的な手続きが主題論である。  たとえば北村透谷「蓬莱曲」は、粗筋だけ見るなら、明らかに新約聖書を下敷きにしており、ほとんど翻案に近い。蓬莱曲は作品であり、聖書は超越的な物語、あるいは神話であるが、主題論的な手続きを経て明らかになるその粗筋を作品の本質としてしまうと、寧ろ聖書を論ずることを意味して、作品が消えてしまう。それは作品論としての主題論の課題ではない。 作品から神話と残余とが取り出される時に、神話の側につくか、残余の側につくか、というのは、一種の政治性を帯びた問いである。蓮実重彦の物語批判は、こういう枠組みであった。むろん、人間観としては、個人の個人性と個人の人間性の対立と一致の問題になる。  個人の個人性と人間性の矛盾と統一の問題は、共産党員だけでなく、およそ「組織と人間」の問題系にも敷衍できる。共産党員である自分が自己の本質なのか、党員性は自己の本質ではなく属性なのか、などなど。

太田努「北村透谷に見るもう一つの『明治の精神』」

太田努「北村透谷に見るもう一つの『明治の精神』」 ( 民主文學 2018 、 1) を読んだ。北村透谷には10年来の関心がある。文学と社会運動、政治運動という事を考えてみたときに、未だ本格的に社会主義文献の輸入もなされていなかったであろう時期にいち早く民主主義や立憲主義、人権思想を拠り所として発言した文学社が存在したということは、自死によるその早逝が惜しまれつつも日本の読書人をして勇気付けるような所があると思う。欧米の文学史的な潮流から見るならば、日本の急激な近代化が産んだ分類し難い独特な存在ということになるのではないか。社会思想、ロマン主義的な文学思想、宗教と政治とが一個人の中で葛藤しつつ結び付けられている。だが日本近代文学史にとって、ことに精神的な影響の頗る大きかったであろうことは、ちょうど日本近代史にエポックメイキングな存在だった萩原朔太郎の詩の世界が相当に倒錯的であったり奇異な感覚を展開するものであるような、ある種の後進資本主義国的歪みをも感じさせる。 「内部生命論」は短くて比較的読みやすい。ここに言われている「内部生命  Inner Life 」の出典がどこに求められるべきかは知らないが、キリスト教神秘主義やロマン主義的な匂いのする概念である。端的には「人はパンのみにて生くるにあらず」の意味での内部生命であるとは言えるはずだ。透谷にはおそらく明治という封建制と近代性の矛盾しつつ目眩く混交する情勢の急激な発展の中で、封建制的なもの、形式主義に堕したものを、自身がいわば生命そのものの化身として一掃して、水々しい精神文化を新たに花開かさねばならないという使命感があったはずである。その透谷がわずか25歳で自死せねばならぬ運命には、時代的理由を超えた何か人間の根源的な宿命のようなものを感じざるを得ないが。この生命の観念は、ニーチェやベルグソンの浸透を通じた大正生命主義を準備するものであったに違いない。 「蓬莱曲」も読んでみたいものである。蓬莱とは中国のおそらく道教由来のユートピアであり、いわばユートピア文学を明治に志したものと思われる。空想的であろうと科学的であろうと、社会は常に理念としてのユートピアを求める。 それは近代以前の文芸と近代以降の文学との主題論的な区別の契機とすらいえるかもしれない
・ヘーゲルの判断論が歴史の進展と一致している点は、大論理学でも特に分かりにくいところだがおそらく、ここで言われている「判断」とは「正しい判断」である事を基本に据えると理解しやすくなる。我々がある外的対象としての赤いバラを指して「バラは赤い」(バラは赤い色を持って存在する)という判断を行う。すなわち、バラと赤とを結合する判断を行うが、これは外的対象としてのバラが赤い色をしてるから正しい判断、言明なのであって、外的対象の姿が先行している。では外的対象としての「バラが」「赤い」という事態が存在するためには、外的次元でバラが赤くなっていなくてはいけない。つまり、論理的判断が言明される前に、対象がそのような姿に変化=発展していなくてはならない。このような外的変化が、いわば客観的世界の「判断=変化発展』であり、言明としての主観的な論理的な判断は、この外的出来事を意識において再現するものだといいうる。
・歴史の運動は様々な力の合力によって生じる。大部分の一人の人間は、成人すれば生活資金を獲得するために労働する。だが、自分では労働せず労働を統制支配する階級が存在している。この少数の支配層の歴史規定力が圧倒的に強いのが資本主義的な階級社会であるが、このように支配と被支配の関係があり、歴史の方向性は少数の支配層に左右されているにも関わらず、大局的には、真なる歴史主体としてのプロレタリア階級が、歴史を前に進めている。つまり偽の力による歴史規定は表面的なもの、現象的なものに過ぎない。 ・マルクスがいわゆる「唯物史観」を考えるに至ったのは、一つはヘーゲル弁証法的な歴史把握であり、一つは実証的な歴史研究を手段としたはずである。特にヘーゲル歴史哲学の唯物論的な批判が最大の契機だったのではないだろうか。

カイエ12−07

一、 我々のあらゆる生は、その全ての行為と出来事は、我々が「生きている」というそのことに基づいている。霊的な次元を問わないならば、万民が何を欲しようとまず生きていなければならない。しかし、我々は常に多数の生命を奪って来た。戦争がその最たるものであり、貧困を必然化する社会システムがあり、事故もあれば過誤もある。殺害は他者になしうる最大の悪であり、罪をなす。人類の文明は諸々の面で発展したが、犠牲も比例的に大きくなっている。核の脅威は未だ世界から取り除かれてはいない。 一、 意味と価値というものは、無意味と無価値との絶えざる戦い、否定、拒否である。我々は歴史や人生の意味を問い、その無意味を結論することが可能だが、絶えず無意味を否定することも可能である。寧ろ、生とはこの無意味性=死(無)との戦い無くして維持できない。死は最大の悪であり、罪である。
一、 読解における感性とは、主体に感情的な反応やある種の精神的な効果を齎す主体の側の能力のことであるが、一般には、芸術的な言語作品は、科学や哲学のように知識を与えることそのものに目的があるのではなく、ある種の精神的な、感情的な経験を与える所に主目的がある。従って、精神的な経験を与える主体の受容能力を感性と換言してもよい。そして精神的経験のうちで特に感動と言われる経験に、文学の目的の第一があるだろう。 読解過程には様々な精神的な働きが重層的に生じているものと考えられるが、特に物語内容と読者の知識経験とが複雑に反応しあって、読み進められる。批評は個々の主体の主観的な問題には踏み込めないが、物語の側と、一般的な主体モデルとの関係においては、作品の意味を扱うことができる。読者の主観性が、程度の違いはあれ、一般的主体としての性格を持つ以上は、批評は読書経験に寄与することができる。

カイエ2017-12-03

一、 カント「純粋理性批判」の学びの必要。ヘーゲルの読み方をカントに習うのは本末転倒であるかもしれないが、ヘーゲルのダイナミズムは緻密なカントの論理を前提にしている。カントかヘーゲルか、などという歴史的評価の問題にはさして関心はない。また、ヘーゲル的な精神の発展史としての哲学史の問題は重要だが、カントのアクチュアリティはその普遍性に存する。 一、 現代文学の問題ー文学が扱うべき問題とは常に、歴史的普遍性のある所に存する。普遍性は寧ろ一般的な意味での合理性を裏切ることで合理性を可能にするようなファルマコンであり、危機であり、ポエジーの湧出する淵源でもある。批評は文学作品の扱う普遍性を正当に見極めることで作品の価値を評する。この作品の内包する普遍性=批評性は、作品の主題と合致していることもあれば、主題を裏切って別の点に意識的にか無意識的にか存在することもある。批評的価値とは質的価値であり、直ちに量的価値ではない。作品の内包する「意味」を展開することが批評的読解であり、この質的価値を量的価値に変換するときに、他の作品との相対比較が要請され、いわゆる価値(=交換価値)が成立する。 一、 カントの数学の純粋性とは、およそ数が万物の最も抽象的な質である単一の量(=1)でできているから、それを「純粋」と呼ぶ。あらゆるものは最も抽象化されるなら、1にしかならないからである。この意味は、先天的認識を行う理性(純粋理性)が、あらゆる経験から蒸留なり還元されることで見出される、という意味での「純粋性」とは異なるように見えるかも知れないが、純粋理性もまた、さらに1という数に還元することが可能である。この1という数は、存在と同義である。カントの第一批判は、純粋なる理性を主張するものではなく、むしろ純粋なる理性のその純粋さへの批判の意味を含んでいるが、純粋さを認識の問題として扱うなら純粋理性の問題となり、存在論として扱うなら、1という数の問題となる。

カイエ

1. 世界観の統一性も自己の統一性も、初めから=a prioriに私に対して与えられている訳ではない。だが、世界も自己も統一的な原理を想定することが可能である。勿論、そのロゴスですらもむしろ多元的な、複合的な全体性の協働から来る仮象に過ぎないかも知れないが。しかしながら、多数的な起源の否定も単一的な絶対者も何が違うだろう。私が立つべき地平に刻まれるべき対立があるとしても、それは私の世界観と他者のそれとの本質的な異質性であって、その本質的差異に比べれば、世界の全体的事象の概念的差異などは、何程のこともない。 2.自己の世界観と他者の世界観 イデオロギーとはその正しい意味では、共有されうる世界観であり、共有とは、所有に関する個人性=唯我性に対する、他者性による一つの止揚である。つまり、共有不可能な、私だけのイデオロギーとは語義矛盾である。だが、矛盾であることはそれが乗り越えられるべき課題である事を意味する。自己の世界観、自己の固有性、私の私=自我の問題とは、共有不可能なイデオロギーという矛盾が指示するある意識であり、この意識は匿名的意識=非人称性に関わる。 3.精神・生命・物質 物質は発展して生命となり、生命は高められて精神となる。この意味で物質は精神であり、精神は物質である。起源の物質は物質に先行する形態から生まれるので、物質以前の何かの性格を精神は回復しているかもしれない。意識が自己の物質的生命的な自覚を通じて他者世界における主体性を目覚めさせる時に、意識は精神である。 4.意識の対象 物質は意識の対象であり、ほかの意識、精神や心もまた意識の対象である。物質はしかしながら、単なる意識によっては絶対に包摂しきれない固有の否定性を有する。物質は一定の客観性を有するが、これは精神の客観性の低次の形態である。

テスト

編集 やっと風邪が快方に向かいつつあるが、まだ完治ではない。「物語」とは何か、というのは、 高専 生時代に 蓮実重彦 や 中上健次 を読んでいた私にはずっと意識の片隅にあるものだ。多分、 蓮実重彦 の物語概念はフランスの説話論を下敷きにした「独創的」なものなので現代フランスの文学思想を参照する労を厭いさえしなければ理解に困難なものではない。だが、ものぐさなので放置している。最近、ふと 吉本隆明 が 共同幻想論 を書かねばならなかったのは、政治家と芸術家の社会 存在論 的な交点においてその存在を客観視ー反省する必要があったのだろうと思い当たった。戦後、 アドルノ のテーゼ( アウシュビッツ 以後の詩人の野蛮性)にみられるがごとき芸術家の 存在論 が厳しく問われた、それは表面的には芸術家の社会参加ーアンガジュマンの形式を取ったが、これを マルクス主義 よりは 民俗学 的な次元で扱う必要が 吉本隆明 にはあった。勿論そのベクトルは、 学生運動 の指導者から神話学の研究に向かったレヴィストロースと軌を一にするものだ。だが多分、 共同幻想 とは共同体と芸術家=政治家との関係において問われるべきまさに「物語= イデオロギー 」の問題であったという視角が、その前も後も広く了解されたのか否かは知らない。