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カイエ2017-12-03

一、

カント「純粋理性批判」の学びの必要。ヘーゲルの読み方をカントに習うのは本末転倒であるかもしれないが、ヘーゲルのダイナミズムは緻密なカントの論理を前提にしている。カントかヘーゲルか、などという歴史的評価の問題にはさして関心はない。また、ヘーゲル的な精神の発展史としての哲学史の問題は重要だが、カントのアクチュアリティはその普遍性に存する。

一、

現代文学の問題ー文学が扱うべき問題とは常に、歴史的普遍性のある所に存する。普遍性は寧ろ一般的な意味での合理性を裏切ることで合理性を可能にするようなファルマコンであり、危機であり、ポエジーの湧出する淵源でもある。批評は文学作品の扱う普遍性を正当に見極めることで作品の価値を評する。この作品の内包する普遍性=批評性は、作品の主題と合致していることもあれば、主題を裏切って別の点に意識的にか無意識的にか存在することもある。批評的価値とは質的価値であり、直ちに量的価値ではない。作品の内包する「意味」を展開することが批評的読解であり、この質的価値を量的価値に変換するときに、他の作品との相対比較が要請され、いわゆる価値(=交換価値)が成立する。

一、
カントの数学の純粋性とは、およそ数が万物の最も抽象的な質である単一の量(=1)でできているから、それを「純粋」と呼ぶ。あらゆるものは最も抽象化されるなら、1にしかならないからである。この意味は、先天的認識を行う理性(純粋理性)が、あらゆる経験から蒸留なり還元されることで見出される、という意味での「純粋性」とは異なるように見えるかも知れないが、純粋理性もまた、さらに1という数に還元することが可能である。この1という数は、存在と同義である。カントの第一批判は、純粋なる理性を主張するものではなく、むしろ純粋なる理性のその純粋さへの批判の意味を含んでいるが、純粋さを認識の問題として扱うなら純粋理性の問題となり、存在論として扱うなら、1という数の問題となる。

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 主題論と大きな物語・神話。主題論は作品論にとって否定的媒介であるというのがわたしの基本的な考え。 というのも、主題論的な作品分析は、帰納的手法であれ、結局のところ、作品を、超越的な物語に還元する機能を持つからだ。作品を別の物語に還元するなら、それは既に作品を論じているのではなく、超越的な物語を論じていることになる。主題論によっては明らかにならない残余こそが、その作品の固有性である。その残余を明らかにする前提的な手続きが主題論である。  たとえば北村透谷「蓬莱曲」は、粗筋だけ見るなら、明らかに新約聖書を下敷きにしており、ほとんど翻案に近い。蓬莱曲は作品であり、聖書は超越的な物語、あるいは神話であるが、主題論的な手続きを経て明らかになるその粗筋を作品の本質としてしまうと、寧ろ聖書を論ずることを意味して、作品が消えてしまう。それは作品論としての主題論の課題ではない。 作品から神話と残余とが取り出される時に、神話の側につくか、残余の側につくか、というのは、一種の政治性を帯びた問いである。蓮実重彦の物語批判は、こういう枠組みであった。むろん、人間観としては、個人の個人性と個人の人間性の対立と一致の問題になる。  個人の個人性と人間性の矛盾と統一の問題は、共産党員だけでなく、およそ「組織と人間」の問題系にも敷衍できる。共産党員である自分が自己の本質なのか、党員性は自己の本質ではなく属性なのか、などなど。

202201

 【精神1】 精神は唯物論的には物質に起源を持ち、物質より優先順位の低い物である。精神はとみに自己の無限を誇ってやまないが、そのような精神の優越もそれが物質の次元の有限性に引き戻されるならば、均衡が維持できるというものである。ヘーゲルが精神、特に神そのものとしての絶対精神に万物の原理の地位を見入出す一方で、マルクス=エンゲルスは物質に、唯物論に自らの思想のエレメントを見入出す。だが唯物論と観念論の対立そのものは現代的課題であるとはみなせない。人類の脳の解剖学的な研究が精神と物質の思想史的な対立図式をアウフヘーベンしたとも言い得るだろう。精神と言語は社会的実践の中枢である。我々が良く生き正しく生きるためには、精神の本来性とエネルギーがどうしても必要である。 【文学1】 文学は基本的には人間の生活を描く。戦場での生活もあれば平和な学校での生活もある。