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202201

 【精神1】 精神は唯物論的には物質に起源を持ち、物質より優先順位の低い物である。精神はとみに自己の無限を誇ってやまないが、そのような精神の優越もそれが物質の次元の有限性に引き戻されるならば、均衡が維持できるというものである。ヘーゲルが精神、特に神そのものとしての絶対精神に万物の原理の地位を見入出す一方で、マルクス=エンゲルスは物質に、唯物論に自らの思想のエレメントを見入出す。だが唯物論と観念論の対立そのものは現代的課題であるとはみなせない。人類の脳の解剖学的な研究が精神と物質の思想史的な対立図式をアウフヘーベンしたとも言い得るだろう。精神と言語は社会的実践の中枢である。我々が良く生き正しく生きるためには、精神の本来性とエネルギーがどうしても必要である。 【文学1】 文学は基本的には人間の生活を描く。戦場での生活もあれば平和な学校での生活もある。
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 主題論と大きな物語・神話。主題論は作品論にとって否定的媒介であるというのがわたしの基本的な考え。 というのも、主題論的な作品分析は、帰納的手法であれ、結局のところ、作品を、超越的な物語に還元する機能を持つからだ。作品を別の物語に還元するなら、それは既に作品を論じているのではなく、超越的な物語を論じていることになる。主題論によっては明らかにならない残余こそが、その作品の固有性である。その残余を明らかにする前提的な手続きが主題論である。  たとえば北村透谷「蓬莱曲」は、粗筋だけ見るなら、明らかに新約聖書を下敷きにしており、ほとんど翻案に近い。蓬莱曲は作品であり、聖書は超越的な物語、あるいは神話であるが、主題論的な手続きを経て明らかになるその粗筋を作品の本質としてしまうと、寧ろ聖書を論ずることを意味して、作品が消えてしまう。それは作品論としての主題論の課題ではない。 作品から神話と残余とが取り出される時に、神話の側につくか、残余の側につくか、というのは、一種の政治性を帯びた問いである。蓮実重彦の物語批判は、こういう枠組みであった。むろん、人間観としては、個人の個人性と個人の人間性の対立と一致の問題になる。  個人の個人性と人間性の矛盾と統一の問題は、共産党員だけでなく、およそ「組織と人間」の問題系にも敷衍できる。共産党員である自分が自己の本質なのか、党員性は自己の本質ではなく属性なのか、などなど。

太田努「北村透谷に見るもう一つの『明治の精神』」

太田努「北村透谷に見るもう一つの『明治の精神』」 ( 民主文學 2018 、 1) を読んだ。北村透谷には10年来の関心がある。文学と社会運動、政治運動という事を考えてみたときに、未だ本格的に社会主義文献の輸入もなされていなかったであろう時期にいち早く民主主義や立憲主義、人権思想を拠り所として発言した文学社が存在したということは、自死によるその早逝が惜しまれつつも日本の読書人をして勇気付けるような所があると思う。欧米の文学史的な潮流から見るならば、日本の急激な近代化が産んだ分類し難い独特な存在ということになるのではないか。社会思想、ロマン主義的な文学思想、宗教と政治とが一個人の中で葛藤しつつ結び付けられている。だが日本近代文学史にとって、ことに精神的な影響の頗る大きかったであろうことは、ちょうど日本近代史にエポックメイキングな存在だった萩原朔太郎の詩の世界が相当に倒錯的であったり奇異な感覚を展開するものであるような、ある種の後進資本主義国的歪みをも感じさせる。 「内部生命論」は短くて比較的読みやすい。ここに言われている「内部生命  Inner Life 」の出典がどこに求められるべきかは知らないが、キリスト教神秘主義やロマン主義的な匂いのする概念である。端的には「人はパンのみにて生くるにあらず」の意味での内部生命であるとは言えるはずだ。透谷にはおそらく明治という封建制と近代性の矛盾しつつ目眩く混交する情勢の急激な発展の中で、封建制的なもの、形式主義に堕したものを、自身がいわば生命そのものの化身として一掃して、水々しい精神文化を新たに花開かさねばならないという使命感があったはずである。その透谷がわずか25歳で自死せねばならぬ運命には、時代的理由を超えた何か人間の根源的な宿命のようなものを感じざるを得ないが。この生命の観念は、ニーチェやベルグソンの浸透を通じた大正生命主義を準備するものであったに違いない。 「蓬莱曲」も読んでみたいものである。蓬莱とは中国のおそらく道教由来のユートピアであり、いわばユートピア文学を明治に志したものと思われる。空想的であろうと科学的であろうと、社会は常に理念としてのユートピアを求める。 それは近代以前の文芸と近代以降の文学との主題論的な区別の契機とすらいえるかもしれない
・ヘーゲルの判断論が歴史の進展と一致している点は、大論理学でも特に分かりにくいところだがおそらく、ここで言われている「判断」とは「正しい判断」である事を基本に据えると理解しやすくなる。我々がある外的対象としての赤いバラを指して「バラは赤い」(バラは赤い色を持って存在する)という判断を行う。すなわち、バラと赤とを結合する判断を行うが、これは外的対象としてのバラが赤い色をしてるから正しい判断、言明なのであって、外的対象の姿が先行している。では外的対象としての「バラが」「赤い」という事態が存在するためには、外的次元でバラが赤くなっていなくてはいけない。つまり、論理的判断が言明される前に、対象がそのような姿に変化=発展していなくてはならない。このような外的変化が、いわば客観的世界の「判断=変化発展』であり、言明としての主観的な論理的な判断は、この外的出来事を意識において再現するものだといいうる。
・歴史の運動は様々な力の合力によって生じる。大部分の一人の人間は、成人すれば生活資金を獲得するために労働する。だが、自分では労働せず労働を統制支配する階級が存在している。この少数の支配層の歴史規定力が圧倒的に強いのが資本主義的な階級社会であるが、このように支配と被支配の関係があり、歴史の方向性は少数の支配層に左右されているにも関わらず、大局的には、真なる歴史主体としてのプロレタリア階級が、歴史を前に進めている。つまり偽の力による歴史規定は表面的なもの、現象的なものに過ぎない。 ・マルクスがいわゆる「唯物史観」を考えるに至ったのは、一つはヘーゲル弁証法的な歴史把握であり、一つは実証的な歴史研究を手段としたはずである。特にヘーゲル歴史哲学の唯物論的な批判が最大の契機だったのではないだろうか。

カイエ12−07

一、 我々のあらゆる生は、その全ての行為と出来事は、我々が「生きている」というそのことに基づいている。霊的な次元を問わないならば、万民が何を欲しようとまず生きていなければならない。しかし、我々は常に多数の生命を奪って来た。戦争がその最たるものであり、貧困を必然化する社会システムがあり、事故もあれば過誤もある。殺害は他者になしうる最大の悪であり、罪をなす。人類の文明は諸々の面で発展したが、犠牲も比例的に大きくなっている。核の脅威は未だ世界から取り除かれてはいない。 一、 意味と価値というものは、無意味と無価値との絶えざる戦い、否定、拒否である。我々は歴史や人生の意味を問い、その無意味を結論することが可能だが、絶えず無意味を否定することも可能である。寧ろ、生とはこの無意味性=死(無)との戦い無くして維持できない。死は最大の悪であり、罪である。
一、 読解における感性とは、主体に感情的な反応やある種の精神的な効果を齎す主体の側の能力のことであるが、一般には、芸術的な言語作品は、科学や哲学のように知識を与えることそのものに目的があるのではなく、ある種の精神的な、感情的な経験を与える所に主目的がある。従って、精神的な経験を与える主体の受容能力を感性と換言してもよい。そして精神的経験のうちで特に感動と言われる経験に、文学の目的の第一があるだろう。 読解過程には様々な精神的な働きが重層的に生じているものと考えられるが、特に物語内容と読者の知識経験とが複雑に反応しあって、読み進められる。批評は個々の主体の主観的な問題には踏み込めないが、物語の側と、一般的な主体モデルとの関係においては、作品の意味を扱うことができる。読者の主観性が、程度の違いはあれ、一般的主体としての性格を持つ以上は、批評は読書経験に寄与することができる。