スキップしてメイン コンテンツに移動
 主題論と大きな物語・神話。主題論は作品論にとって否定的媒介であるというのがわたしの基本的な考え。
というのも、主題論的な作品分析は、帰納的手法であれ、結局のところ、作品を、超越的な物語に還元する機能を持つからだ。作品を別の物語に還元するなら、それは既に作品を論じているのではなく、超越的な物語を論じていることになる。主題論によっては明らかにならない残余こそが、その作品の固有性である。その残余を明らかにする前提的な手続きが主題論である。
 たとえば北村透谷「蓬莱曲」は、粗筋だけ見るなら、明らかに新約聖書を下敷きにしており、ほとんど翻案に近い。蓬莱曲は作品であり、聖書は超越的な物語、あるいは神話であるが、主題論的な手続きを経て明らかになるその粗筋を作品の本質としてしまうと、寧ろ聖書を論ずることを意味して、作品が消えてしまう。それは作品論としての主題論の課題ではない。
作品から神話と残余とが取り出される時に、神話の側につくか、残余の側につくか、というのは、一種の政治性を帯びた問いである。蓮実重彦の物語批判は、こういう枠組みであった。むろん、人間観としては、個人の個人性と個人の人間性の対立と一致の問題になる。

 個人の個人性と人間性の矛盾と統一の問題は、共産党員だけでなく、およそ「組織と人間」の問題系にも敷衍できる。共産党員である自分が自己の本質なのか、党員性は自己の本質ではなく属性なのか、などなど。

コメント

このブログの人気の投稿

・ヘーゲルの判断論が歴史の進展と一致している点は、大論理学でも特に分かりにくいところだがおそらく、ここで言われている「判断」とは「正しい判断」である事を基本に据えると理解しやすくなる。我々がある外的対象としての赤いバラを指して「バラは赤い」(バラは赤い色を持って存在する)という判断を行う。すなわち、バラと赤とを結合する判断を行うが、これは外的対象としてのバラが赤い色をしてるから正しい判断、言明なのであって、外的対象の姿が先行している。では外的対象としての「バラが」「赤い」という事態が存在するためには、外的次元でバラが赤くなっていなくてはいけない。つまり、論理的判断が言明される前に、対象がそのような姿に変化=発展していなくてはならない。このような外的変化が、いわば客観的世界の「判断=変化発展』であり、言明としての主観的な論理的な判断は、この外的出来事を意識において再現するものだといいうる。
・歴史の運動は様々な力の合力によって生じる。大部分の一人の人間は、成人すれば生活資金を獲得するために労働する。だが、自分では労働せず労働を統制支配する階級が存在している。この少数の支配層の歴史規定力が圧倒的に強いのが資本主義的な階級社会であるが、このように支配と被支配の関係があり、歴史の方向性は少数の支配層に左右されているにも関わらず、大局的には、真なる歴史主体としてのプロレタリア階級が、歴史を前に進めている。つまり偽の力による歴史規定は表面的なもの、現象的なものに過ぎない。 ・マルクスがいわゆる「唯物史観」を考えるに至ったのは、一つはヘーゲル弁証法的な歴史把握であり、一つは実証的な歴史研究を手段としたはずである。特にヘーゲル歴史哲学の唯物論的な批判が最大の契機だったのではないだろうか。

テスト

編集 やっと風邪が快方に向かいつつあるが、まだ完治ではない。「物語」とは何か、というのは、 高専 生時代に 蓮実重彦 や 中上健次 を読んでいた私にはずっと意識の片隅にあるものだ。多分、 蓮実重彦 の物語概念はフランスの説話論を下敷きにした「独創的」なものなので現代フランスの文学思想を参照する労を厭いさえしなければ理解に困難なものではない。だが、ものぐさなので放置している。最近、ふと 吉本隆明 が 共同幻想論 を書かねばならなかったのは、政治家と芸術家の社会 存在論 的な交点においてその存在を客観視ー反省する必要があったのだろうと思い当たった。戦後、 アドルノ のテーゼ( アウシュビッツ 以後の詩人の野蛮性)にみられるがごとき芸術家の 存在論 が厳しく問われた、それは表面的には芸術家の社会参加ーアンガジュマンの形式を取ったが、これを マルクス主義 よりは 民俗学 的な次元で扱う必要が 吉本隆明 にはあった。勿論そのベクトルは、 学生運動 の指導者から神話学の研究に向かったレヴィストロースと軌を一にするものだ。だが多分、 共同幻想 とは共同体と芸術家=政治家との関係において問われるべきまさに「物語= イデオロギー 」の問題であったという視角が、その前も後も広く了解されたのか否かは知らない。