主題論と大きな物語・神話。主題論は作品論にとって否定的媒介であるというのがわたしの基本的な考え。
というのも、主題論的な作品分析は、帰納的手法であれ、結局のところ、作品を、超越的な物語に還元する機能を持つからだ。作品を別の物語に還元するなら、それは既に作品を論じているのではなく、超越的な物語を論じていることになる。主題論によっては明らかにならない残余こそが、その作品の固有性である。その残余を明らかにする前提的な手続きが主題論である。
たとえば北村透谷「蓬莱曲」は、粗筋だけ見るなら、明らかに新約聖書を下敷きにしており、ほとんど翻案に近い。蓬莱曲は作品であり、聖書は超越的な物語、あるいは神話であるが、主題論的な手続きを経て明らかになるその粗筋を作品の本質としてしまうと、寧ろ聖書を論ずることを意味して、作品が消えてしまう。それは作品論としての主題論の課題ではない。
作品から神話と残余とが取り出される時に、神話の側につくか、残余の側につくか、というのは、一種の政治性を帯びた問いである。蓮実重彦の物語批判は、こういう枠組みであった。むろん、人間観としては、個人の個人性と個人の人間性の対立と一致の問題になる。
個人の個人性と人間性の矛盾と統一の問題は、共産党員だけでなく、およそ「組織と人間」の問題系にも敷衍できる。共産党員である自分が自己の本質なのか、党員性は自己の本質ではなく属性なのか、などなど。
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