・ヘーゲルの判断論が歴史の進展と一致している点は、大論理学でも特に分かりにくいところだがおそらく、ここで言われている「判断」とは「正しい判断」である事を基本に据えると理解しやすくなる。我々がある外的対象としての赤いバラを指して「バラは赤い」(バラは赤い色を持って存在する)という判断を行う。すなわち、バラと赤とを結合する判断を行うが、これは外的対象としてのバラが赤い色をしてるから正しい判断、言明なのであって、外的対象の姿が先行している。では外的対象としての「バラが」「赤い」という事態が存在するためには、外的次元でバラが赤くなっていなくてはいけない。つまり、論理的判断が言明される前に、対象がそのような姿に変化=発展していなくてはならない。このような外的変化が、いわば客観的世界の「判断=変化発展』であり、言明としての主観的な論理的な判断は、この外的出来事を意識において再現するものだといいうる。
太田努「北村透谷に見るもう一つの『明治の精神』」 ( 民主文學 2018 、 1) を読んだ。北村透谷には10年来の関心がある。文学と社会運動、政治運動という事を考えてみたときに、未だ本格的に社会主義文献の輸入もなされていなかったであろう時期にいち早く民主主義や立憲主義、人権思想を拠り所として発言した文学社が存在したということは、自死によるその早逝が惜しまれつつも日本の読書人をして勇気付けるような所があると思う。欧米の文学史的な潮流から見るならば、日本の急激な近代化が産んだ分類し難い独特な存在ということになるのではないか。社会思想、ロマン主義的な文学思想、宗教と政治とが一個人の中で葛藤しつつ結び付けられている。だが日本近代文学史にとって、ことに精神的な影響の頗る大きかったであろうことは、ちょうど日本近代史にエポックメイキングな存在だった萩原朔太郎の詩の世界が相当に倒錯的であったり奇異な感覚を展開するものであるような、ある種の後進資本主義国的歪みをも感じさせる。 「内部生命論」は短くて比較的読みやすい。ここに言われている「内部生命 Inner Life 」の出典がどこに求められるべきかは知らないが、キリスト教神秘主義やロマン主義的な匂いのする概念である。端的には「人はパンのみにて生くるにあらず」の意味での内部生命であるとは言えるはずだ。透谷にはおそらく明治という封建制と近代性の矛盾しつつ目眩く混交する情勢の急激な発展の中で、封建制的なもの、形式主義に堕したものを、自身がいわば生命そのものの化身として一掃して、水々しい精神文化を新たに花開かさねばならないという使命感があったはずである。その透谷がわずか25歳で自死せねばならぬ運命には、時代的理由を超えた何か人間の根源的な宿命のようなものを感じざるを得ないが。この生命の観念は、ニーチェやベルグソンの浸透を通じた大正生命主義を準備するものであったに違いない。 「蓬莱曲」も読んでみたいものである。蓬莱とは中国のおそらく道教由来のユートピアであり、いわばユートピア文学を明治に志したものと思われる。空想的であろうと科学的であろうと、社会は常に理念としてのユートピアを求める。 それは近代以前の文芸と近代以降の文学との主題論的な区別の契機とすらいえるかもしれない...
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