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202201

 【精神1】
精神は唯物論的には物質に起源を持ち、物質より優先順位の低い物である。精神はとみに自己の無限を誇ってやまないが、そのような精神の優越もそれが物質の次元の有限性に引き戻されるならば、均衡が維持できるというものである。ヘーゲルが精神、特に神そのものとしての絶対精神に万物の原理の地位を見入出す一方で、マルクス=エンゲルスは物質に、唯物論に自らの思想のエレメントを見入出す。だが唯物論と観念論の対立そのものは現代的課題であるとはみなせない。人類の脳の解剖学的な研究が精神と物質の思想史的な対立図式をアウフヘーベンしたとも言い得るだろう。精神と言語は社会的実践の中枢である。我々が良く生き正しく生きるためには、精神の本来性とエネルギーがどうしても必要である。

【文学1】
文学は基本的には人間の生活を描く。戦場での生活もあれば平和な学校での生活もある。

コメント

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・ヘーゲルの判断論が歴史の進展と一致している点は、大論理学でも特に分かりにくいところだがおそらく、ここで言われている「判断」とは「正しい判断」である事を基本に据えると理解しやすくなる。我々がある外的対象としての赤いバラを指して「バラは赤い」(バラは赤い色を持って存在する)という判断を行う。すなわち、バラと赤とを結合する判断を行うが、これは外的対象としてのバラが赤い色をしてるから正しい判断、言明なのであって、外的対象の姿が先行している。では外的対象としての「バラが」「赤い」という事態が存在するためには、外的次元でバラが赤くなっていなくてはいけない。つまり、論理的判断が言明される前に、対象がそのような姿に変化=発展していなくてはならない。このような外的変化が、いわば客観的世界の「判断=変化発展』であり、言明としての主観的な論理的な判断は、この外的出来事を意識において再現するものだといいうる。
・歴史の運動は様々な力の合力によって生じる。大部分の一人の人間は、成人すれば生活資金を獲得するために労働する。だが、自分では労働せず労働を統制支配する階級が存在している。この少数の支配層の歴史規定力が圧倒的に強いのが資本主義的な階級社会であるが、このように支配と被支配の関係があり、歴史の方向性は少数の支配層に左右されているにも関わらず、大局的には、真なる歴史主体としてのプロレタリア階級が、歴史を前に進めている。つまり偽の力による歴史規定は表面的なもの、現象的なものに過ぎない。 ・マルクスがいわゆる「唯物史観」を考えるに至ったのは、一つはヘーゲル弁証法的な歴史把握であり、一つは実証的な歴史研究を手段としたはずである。特にヘーゲル歴史哲学の唯物論的な批判が最大の契機だったのではないだろうか。

テスト

編集 やっと風邪が快方に向かいつつあるが、まだ完治ではない。「物語」とは何か、というのは、 高専 生時代に 蓮実重彦 や 中上健次 を読んでいた私にはずっと意識の片隅にあるものだ。多分、 蓮実重彦 の物語概念はフランスの説話論を下敷きにした「独創的」なものなので現代フランスの文学思想を参照する労を厭いさえしなければ理解に困難なものではない。だが、ものぐさなので放置している。最近、ふと 吉本隆明 が 共同幻想論 を書かねばならなかったのは、政治家と芸術家の社会 存在論 的な交点においてその存在を客観視ー反省する必要があったのだろうと思い当たった。戦後、 アドルノ のテーゼ( アウシュビッツ 以後の詩人の野蛮性)にみられるがごとき芸術家の 存在論 が厳しく問われた、それは表面的には芸術家の社会参加ーアンガジュマンの形式を取ったが、これを マルクス主義 よりは 民俗学 的な次元で扱う必要が 吉本隆明 にはあった。勿論そのベクトルは、 学生運動 の指導者から神話学の研究に向かったレヴィストロースと軌を一にするものだ。だが多分、 共同幻想 とは共同体と芸術家=政治家との関係において問われるべきまさに「物語= イデオロギー 」の問題であったという視角が、その前も後も広く了解されたのか否かは知らない。