スキップしてメイン コンテンツに移動

カイエ

1.
世界観の統一性も自己の統一性も、初めから=a prioriに私に対して与えられている訳ではない。だが、世界も自己も統一的な原理を想定することが可能である。勿論、そのロゴスですらもむしろ多元的な、複合的な全体性の協働から来る仮象に過ぎないかも知れないが。しかしながら、多数的な起源の否定も単一的な絶対者も何が違うだろう。私が立つべき地平に刻まれるべき対立があるとしても、それは私の世界観と他者のそれとの本質的な異質性であって、その本質的差異に比べれば、世界の全体的事象の概念的差異などは、何程のこともない。

2.自己の世界観と他者の世界観

イデオロギーとはその正しい意味では、共有されうる世界観であり、共有とは、所有に関する個人性=唯我性に対する、他者性による一つの止揚である。つまり、共有不可能な、私だけのイデオロギーとは語義矛盾である。だが、矛盾であることはそれが乗り越えられるべき課題である事を意味する。自己の世界観、自己の固有性、私の私=自我の問題とは、共有不可能なイデオロギーという矛盾が指示するある意識であり、この意識は匿名的意識=非人称性に関わる。

3.精神・生命・物質

物質は発展して生命となり、生命は高められて精神となる。この意味で物質は精神であり、精神は物質である。起源の物質は物質に先行する形態から生まれるので、物質以前の何かの性格を精神は回復しているかもしれない。意識が自己の物質的生命的な自覚を通じて他者世界における主体性を目覚めさせる時に、意識は精神である。

4.意識の対象

物質は意識の対象であり、ほかの意識、精神や心もまた意識の対象である。物質はしかしながら、単なる意識によっては絶対に包摂しきれない固有の否定性を有する。物質は一定の客観性を有するが、これは精神の客観性の低次の形態である。



コメント

このブログの人気の投稿

・ヘーゲルの判断論が歴史の進展と一致している点は、大論理学でも特に分かりにくいところだがおそらく、ここで言われている「判断」とは「正しい判断」である事を基本に据えると理解しやすくなる。我々がある外的対象としての赤いバラを指して「バラは赤い」(バラは赤い色を持って存在する)という判断を行う。すなわち、バラと赤とを結合する判断を行うが、これは外的対象としてのバラが赤い色をしてるから正しい判断、言明なのであって、外的対象の姿が先行している。では外的対象としての「バラが」「赤い」という事態が存在するためには、外的次元でバラが赤くなっていなくてはいけない。つまり、論理的判断が言明される前に、対象がそのような姿に変化=発展していなくてはならない。このような外的変化が、いわば客観的世界の「判断=変化発展』であり、言明としての主観的な論理的な判断は、この外的出来事を意識において再現するものだといいうる。
・歴史の運動は様々な力の合力によって生じる。大部分の一人の人間は、成人すれば生活資金を獲得するために労働する。だが、自分では労働せず労働を統制支配する階級が存在している。この少数の支配層の歴史規定力が圧倒的に強いのが資本主義的な階級社会であるが、このように支配と被支配の関係があり、歴史の方向性は少数の支配層に左右されているにも関わらず、大局的には、真なる歴史主体としてのプロレタリア階級が、歴史を前に進めている。つまり偽の力による歴史規定は表面的なもの、現象的なものに過ぎない。 ・マルクスがいわゆる「唯物史観」を考えるに至ったのは、一つはヘーゲル弁証法的な歴史把握であり、一つは実証的な歴史研究を手段としたはずである。特にヘーゲル歴史哲学の唯物論的な批判が最大の契機だったのではないだろうか。
 主題論と大きな物語・神話。主題論は作品論にとって否定的媒介であるというのがわたしの基本的な考え。 というのも、主題論的な作品分析は、帰納的手法であれ、結局のところ、作品を、超越的な物語に還元する機能を持つからだ。作品を別の物語に還元するなら、それは既に作品を論じているのではなく、超越的な物語を論じていることになる。主題論によっては明らかにならない残余こそが、その作品の固有性である。その残余を明らかにする前提的な手続きが主題論である。  たとえば北村透谷「蓬莱曲」は、粗筋だけ見るなら、明らかに新約聖書を下敷きにしており、ほとんど翻案に近い。蓬莱曲は作品であり、聖書は超越的な物語、あるいは神話であるが、主題論的な手続きを経て明らかになるその粗筋を作品の本質としてしまうと、寧ろ聖書を論ずることを意味して、作品が消えてしまう。それは作品論としての主題論の課題ではない。 作品から神話と残余とが取り出される時に、神話の側につくか、残余の側につくか、というのは、一種の政治性を帯びた問いである。蓮実重彦の物語批判は、こういう枠組みであった。むろん、人間観としては、個人の個人性と個人の人間性の対立と一致の問題になる。  個人の個人性と人間性の矛盾と統一の問題は、共産党員だけでなく、およそ「組織と人間」の問題系にも敷衍できる。共産党員である自分が自己の本質なのか、党員性は自己の本質ではなく属性なのか、などなど。